みなさんこんにちは!
今回はミャンマーの観光地を紹介していきたいと思います!!
Yangon (Rangoon)
1755年にビルマ族のアラウンパヤー王はこの地を占領し、『戦いの終わり』という意味の『ヤンゴン』と名付けた。
1824年、1852年、1885年の3度に及び英緬(イギリス対ビルマ)戦争でビルマ全土はイギリスの植民地となるが、整然とした市街は、イギリス人が綿密な都市計画の下に建設したものだ。
静かでのんびりした雰囲気だったこの街も、高層ビルが出現し、渋滞も見られるようになった。その一方、市場では賑やかに日々の食材が売り買いされ、夜になれば歩道の上に喫茶店が店開きして、お茶と会話を楽しむ人々が集まる。
そんなヤンゴンの日常を見守るかのように、彼方の丘の上でシュエダゴォン・パヤーが黄金に輝いている。
シュエダゴォン・パヤー (Shwedagon Paya)
ヤンゴン市街の北、シングッダの丘に金色に輝くシュエダゴォン・パヤーは、「聖なる」という言葉のもつどこか近づきにくいイメージとはうらはらに、強烈すぎるほど人を引き寄せる力をもっている。そのせいなる力に誘われて、国内外から大勢の善男善女が、毎日引きも切らずにお参りにやってくる。
スーレー・パヤー (Sule Paya)
ヤンゴンの市街はスーレー・パヤーを中心に設計されている。スーレートはパーリ語で「整髪」という意味で、仏塔内には仏陀の遺髪が納められているといわれている。高さ46mのスーレー・パヤーは、昼は太陽、夜はライトの光を浴びて、常に金色に輝き続けている。ボータタウン・パヤー (Botahaung Paya)
ヤンゴン川沿いに立つこの仏塔は、2500年以上昔、8人の僧がインドから仏陀の遺品を持ち帰ってここに安置したことに始まるといわれている。ボータダウンという名前は、その8人の想の警護にあたっていた1000人の兵士を意味している。
カバーエー・パヤーと聖洞窟 (Kaba Aye Paya & Maha Pasana Cave)
1952年、当時の首相ウー・ヌによって、世界の平和を祈願して建てられたのがカバーエー・パヤー。ヤンゴン市街と空港を結ぶ途中にある。塔の高さは36mで境内も広く、全体の作りもどことなく現代的な雰囲気がある。
チャウッターヂー・パヤー (Chauck Htat Gyee Paya)
比較的新しい仏塔で、全長70m、高さ17mの巨大な寝仏が祀られている。どの角度から見ても優美な表情をしている。足の裏に描かれた黄金の宇宙観図は見事。党内の壁面上部には寄進をした人の名前と金額が記され、日本人の名前も多い。
インヤー湖 (Inya Lake)
カンドーヂ湖(ロイヤル湖) (Kan Daw Gyi Lake)
市街の北約1kmのところにある。シュエダゴォン・パヤーへの行き帰りにでもよってみるとよい。ひっそりとしたのどかな湖だ。岸辺には、この国の伝説上の鳥カラウェイをかたどったカラウェイ・パレスという高級水上レストランがある。また、湖のほとりにはユートピアというアミューズメント・タワーが有り、屋上の展望台から湖周辺の風景が見渡せる。ボージョーアウンサン・マーケット (Bogyoke Aung San Market)
ヤンゴンで最も大きく、にぎやかなマーケット。通りに面した2回建ての建物の奥に、広い市場の建物がある。入口の正面中央にドームがある建物は、イギリス植民地時代の1926年に建てられた。ここはヤンゴンの他の市場とはやや趣が違って生鮮食品は扱わず、どちらかというとお土産的な品物を扱う店が多い。
ヤンゴン川沿岸とストランド通り (River Side)
インド人街・中国人街 (Ethnic Town)
この国には、地理的、歴史的な事情でインド人や中国人も多く住んでいる。ボーヂョーアウンサンマーケットの南側一帯からスーレー・パヤーにかけての地域にはインド人が集住し、マハバンドゥーラ通りには本場持込のカレー屋ダンバウを食べさせるレストランや、喫茶店が多い。インド人街からさらに西へ進むと、看板に漢字が目につくようになり、金を商う金行が並んでいる。このあたりが中国人街である。【出典 地球の歩き方 ミャンマー(ビルマ)】
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